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坂井平野の歴史を刻む称念寺と丸岡町舟寄・長崎地区に残る『恩地』の姓

坂井平野の歴史を刻む坂井市丸岡町舟寄・長崎
兵庫川と十郷用水が並ぶ坂井市丸岡町舟寄

1,坂井平野を潤す兵庫川・田島川に十郷用水


 南北朝時代の雄・新田義貞の墓所があることで有名な丸岡町長崎の称念寺。その長崎地区を大きく北西側を囲むように丸岡町舟寄地区があります。現在は2つの地区に分かれていますが兵庫川と田島川に囲まれ兵庫川の横には九頭竜川から坂井平野に広がる十郷用水もあり水の流れの要所となっていて古くから人々が集まる地域でした。コシヒカリ発送の地としても有名な舟寄地区。現在の十郷用水はパイプライン化されてコンクリートで固められているのも時代の流れかな。


 

歴史の表舞台に立つ長崎称念寺

2,南北朝時代の拠点から始まる長崎称念寺


 新田義貞の墓所があることで有名な長崎称念寺。古くは長崎城とも呼ばれ幾多の戦いの中で名前が登場します。


 南北朝時代、南朝方の細屋右馬助が3000の兵を率い越前国に入り長崎・河合・川口に城を構えた太平記には記載されています。当時、越前国府(越前市)を中心に勢力を保つ北朝方の斯波高経と京から越前に入った新田義貞が金ヶ崎(敦賀市)で衝突。新田義貞は自分の影響力の強い越後、上野などからの兵を集め加賀から越前国に侵入させました。細屋氏はこの時、加賀から入った南朝方の武将のひとりと考えられます。3000の兵を率いていることからもかなりの武将と考えられます。


 さらに戦国時代に入ると越前守護の斯波氏、守護代の甲斐氏を国内から追い出し越前の主導権を握った朝倉氏に対し体制を立て直した斯波氏・甲斐氏朝倉方の長崎城をはじめ金津城、兵庫城、新庄城を攻め落とした。これに対して翌年の文明13年(1481年)に朝倉氏は軍を率いこの長崎城で激突。大勝利を収めた。このことで朝倉氏は越前での支配を強固なものにします。


 朝倉氏滅亡後、混迷の越前に加賀から一向一揆勢が集結。越前国府にいた富田長繁を攻めるためここ長崎城に集結したといわれる。


京都御所と同じ堀壁を持つ長崎称念寺

 激動の越前国での権力争いの中で必ずと言っていいほど登場する長崎城こと長崎称念寺。ここ長崎称念寺の門前で美濃から逃れた明智光秀が10年ほど住んだ地としても有名です。


 また、称念寺の山門の堀壁は5本の筋線が入っている。これは京都御所の堀壁と同じ格式の高い皇族関係の寺社仏閣を示すものといわれます。室町時代、後花薗天皇の勅願寺となっいて天皇家ゆかりの寺としてその格式の高さを表します。




 

3,朝倉家の家臣・黒坂景久と今も伝わる伝説と『恩地』という姓


越前朝倉家の家臣・黒坂備中守景久館跡

 現在の丸岡町舟寄の東方の交差点にある日東シンコーの工場。この工場にあったとされる舟寄城。この舟寄城とは朝倉家の家臣・黒坂景久の館と言われ本荘の堀江氏(あわら市)、金津の溝江氏、舟寄の黒坂氏など、もともとは荘園の代官として地域を治めそのまま朝倉家に仕えるようになる。


 しかし、姉川の戦いで黒坂景久は壮絶な最期を迎えます


 朝倉家滅亡後、一時、一向一揆の支配下になった越前国。怒りに震えた織田信長は一向一揆だけでなく一向一揆についた越前の武将たちにも厳しい対応をとります


 織田信長は一向一揆の拠点となっていた豊原寺(丸岡町豊原)を焼き払い軍勢を分けて陣をはりました。その時、陣を置かれたひとつにここ舟寄・長崎地区がありました。これは長崎称念寺の門前に住んでいた明智光秀の助言があったともいわれています。そんな舟寄地区では黒坂景久の家族が行き場がなく身を寄せる場所を探していました。織田信長の軍勢が舟寄に宿を置くことで姉川の戦いで織田信長と戦った黒坂家への対応に不安を感じます。見つかれば黒坂一族は皆殺しになる可能性もあります


 そんな中、舟寄宿の旅籠屋(はたごや)が自分の身を犠牲にし黒坂一族を護りとおしたと言われています。黒坂一族はこの旅籠屋に感謝し恩返しとして自分の土地を分け与え『恩地』という姓を与えたと伝わります。現在、舟寄地区や坂井市には恩地を名乗る家が複数あり黒坂一族を護った旅籠屋との関係が考えられます


 明智光秀と関係のある姓もいくつかあり、あわら市には明智を父とする『明父(あぢち)』『兄父(あぢち)』、山間部に住み着いた『阿治地(あじち)』も明智光秀と関係する姓と言われている。江戸時代には明智という名前は名乗りづらく名前を変えたと言われその姓は坂井市、あわら市、加賀市にまで広がりますが数は少ないです。家紋はもちろん桔梗紋であることがほとんどです。

 

4、江戸期、北陸道が通る舟寄は宿場町として栄える


坂井市丸岡町舟寄にある加賀道の石碑

 江戸期には北陸道が通る舟寄地区は舟寄宿として宿場町として栄えます。北は金津宿、ここ舟寄宿を通り舟橋宿へと繋がります


 特に加賀前田家は参勤交代の際にこの越前を通り京都や大坂へ向かい江戸へと向かいました。また吉崎へ向かう道ともなっていたので交通の要所ともなり、兵庫川や十郷用水などがあったため馬河戸と呼ばれる馬を洗う場所もありました。加賀前田家大名行列が通る際は舟寄・長崎地区の住民が総出で対応したと言われ当時の加賀前田家の大名行列の規模の大きさを感じます


 そんな宿場町・舟寄宿は貞享3年(1686年)福井藩領から幕府直轄領になり陣屋が置かれました。現在の高椋西部コミニティセンターに位置し代官が置かれ代官の公事場、勘定場などがあり周辺には牢屋や長屋があり土手と堀で囲まれていたと言われます。陣屋は石田陣屋・鯖江陣屋・本保陣屋(越前市本保町)などに移ることはありましたが宿場町としては明治時代になるまで栄えました。


 加賀から舟寄宿までの北陸道を加賀道と言われ、現在も加賀道の石碑が残っています



 加賀方面から舟寄に入るときに入り口にあるお地蔵様。道祖神的な役割があると考えられます。村の中に疫病や悪霊などの侵入を防ぐと考えられている。


 福井方面にあるお地蔵様。現在の住所では長崎に位置し集落を横切る北陸道。舟寄と長崎がひとつの集落と考えられていたことが分かります。このお地蔵様からお地蔵様までの間を舟寄宿と考えていいと思います


 丸岡町舟寄・長崎地区は坂井平野の中心に位置し加賀、吉崎御坊、豊原、福井、もちろん丸岡城へと向かう通過地点となります。その為、古くは軍事的拠点として江戸期に入ると交通の要所として独特な歴史を歩んでいることが分かり興味深い地域だなと感じます。

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