写真左・堀江景忠が朝倉軍を迎えるための陣を置いたあわら市中番の春日神社
写真中・竹田川北側・あわら市番田の堀江公番田館跡
写真右・激戦の地となったあわら市東善寺地区の春日神社はご神体以外全焼
戦国時代、越前朝倉家が隆盛を誇っていた時、現在のあわら市下番地区を中心に勢力を広げていたのが堀江氏。弘治元年(1555年)に朝倉家の家臣・堀江景忠として朝倉宗滴とともに加賀一向一揆を討ち破った際は戦功をあげている。
そんな堀江景忠と息子・景実が永禄10年(1567年)に加賀一向一揆と手を組み朝倉家に反旗を翻した。朝倉義景は直ちに魚住景固・山崎吉家を現在のあわら市大溝の溝江氏の居城・金津城に派遣。その兵は合わせて2000を超えるといわれる。迎え撃つ堀江氏は現在のあわら市中番の春日神社に1000の兵を集め陣を構える。あわら市東善寺、上番、谷畠、仏徳寺一帯は戦場と化し田畑や家は焼き払われるなど被害を被る。戦局は堀江氏の軍略に朝倉方は攻め倦み苦戦。しかし、朝倉方は堀江氏の本荘城を攻略し堀江氏を竹田川より北へ追い出すことに成功する。
これにより堀江氏は坂井市三国町加戸の円福寺に入る。
その後、堀江景忠の内室と朝倉義景の母が姉妹でありその母親の願いもあり朝倉義景は堀江氏攻撃をやめ命は助けられたが越前を追い出されることとなる。
これが永禄10年(1567年)に起きた堀江の乱。なぜ、堀江氏が朝倉家を裏切ったのか??今後、深堀していきたいと思います。
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