全国で一番多いといわれる八幡神社。福井県でも八幡神社は多く全体の20%、300以上の八幡神社が鎮座しています。境内社などを合わせるとそれ以上の八幡神社が祀られていると考えられます。越前四大八幡宮と呼ばれているものもあり八幡神社がこの越前でも愛され広く浸透していることがわかります。越前国での歴史と八幡神社の関連性などをチェックしまとめてみました!
まずは八幡神社に祀られることの多い応神天皇について簡単にまとめたいと思います。
1,生まれながらの天皇・応神天皇とは?
八幡神社に祀られている御祭神として有名な第15代天皇の応神天皇。いろいろな呼び方があり誉田別尊、品陀和氣命などと記載されている事もありホムダワケノミコト、ホンダワケノミコトなどと呼ばれることもあります。神仏習合や古事記・日本書紀によって呼び名が変わっていますが、八幡大菩薩は応神天皇と考えても間違いないと考えます。しかし、この応神天皇がどんな天皇だったか知っている方はとても少ないと思います。実際、これと言って凄いことをした天皇でもないのですが応神天皇時代に日本は大きく発展したといわれています。しかし、応神天皇の事は応神天皇ではなくその母・神功皇后にフォーカスを当てればおのずと応神天皇がなぜ神として崇められるのか分かってきます。
神功皇后はもともと巫女と考えられていて神のお告げを夫の仲哀天皇に伝えていたといわれています。そんな中、神功皇后は朝鮮半島を制圧せよという神のお告げを受けることとなります、神功皇后は夫・仲哀天皇にそのことを伝え、仲哀天皇も準備に入りました。しかし、未だヤマト王権に従わない九州南部の襲国(そのくに)を征伐の最中に熊襲(クマソ・襲国の人々の呼び名)の矢に当たり崩御されたといわれます。
ここからの神功皇后がとても凄く、仲哀天皇の意思を引き継いだ神功皇后は熊襲征伐を達成。その後、海を渡り当時の朝鮮半島を支配していた新羅を攻め込み百済、高麗の3つの国を服属させる。いわゆる三韓征伐を達成させました。これは古事記や日本書紀、朝鮮や中国の歴史書にもそれに関した記事はあるが詳細は謎に包まれています。
神功皇后はあくまでも女性であり男尊女卑の強い時代に女性がヤマト王権をまとめることはとても難しいと考えられます。しかし、神功皇后は仲哀天皇の子を身籠っておりその子が仲哀天皇の意思を引き継いでいるとアピールしました。つまり、神功皇后が熊襲征伐や三韓征伐を行っているのではなくお腹の子が仲哀天皇の意思を引き継ぎ神功皇后を利用し戦っているという理屈になります。そして、このお腹の中にいた子供がのちの応神天皇となります。
仲哀天皇崩御から10か月後に応神天皇が生まれます。赤子の応神天皇の腕には鞆(ほむた・弓を射るとき左手首内側につける皮製の武具です。)のような筋肉が備わっていたので、はじめ大鞆と名付けられました。これは応神天皇が弓の達人とも呼ばれる由縁にもなっており、そのため八幡神社の中には弓八幡神社と称する神社も多く、お弓神事や流鏑馬など弓にまつわる神事が多いのも八幡神社の特色のひとつです。そして応神天皇誕生のその時、応神天皇はすでに熊襲征伐や三韓征伐を神功皇后のお腹の中で行っていることになりまさに生まれながらのサラブレットとして生まれることになります。
2,越前と神功皇后の関係は?
実は越前国は神功皇后と深い関係があります。なんといっても敦賀市にある気比神宮の存在です。記紀(日本書紀と古事記)によると角鹿(現・敦賀)に行宮(天皇の一時的な住まい)として筍飯宮があったといわれこれが現在の気比神宮と言われています。仲哀天皇が紀伊国に滞在中に襲国が謀反を起こしたので角鹿にいる神功皇后に出発を命じたことが記紀に記載されています。また、三韓征伐の際にも神功皇后は角鹿から出発したといわれています。つまり、神功皇后はこのころ角鹿に住んでいたと考えられます。敦賀市には神功皇后が応神天皇を生んだといわれる常宮神社など神功皇后と関係のある神社がいくつかあります。
これらのことから敦賀市は神功皇后とのかかわりがとても強い地域と考えられます。ただ、この時代にはまだ八幡神社が広がる事はありませんが、神功皇后との関係のある神社が敦賀市を中心に鎮座することとなります。
平安時代に入ると、この越前国で八幡神社を広めていくきっかけを作った方がいます。和田八幡宮に堂々たる銅像がある源満仲です。源満仲が越前国の守護を務めたことによって越前国でも八幡神社が広がっていくこととなります。和田八幡宮の社伝によると
『平安時代中期(959年)、当時この地方は、たびたび洪水や疫病に襲われていました。当時、越前で守護職をしていた源満仲は、霊夢により東北に向け矢を放ち、矢の落ちた先である越前(現福井市和田)にお宮を創建しました。満仲八幡御宮と石に刻み、祈念して護摩焚きをしたところ、洪水や疫病が鎮まったといわれています。そのお宮というのが和田八幡宮です。』
とあります。天徳3年(959年)石清水八幡宮から勧請とされていて、もともと九州地方の土着神だった八幡信仰が清和源氏によって全国に広まったことが大きく、越前国もそれと同じく清和源氏の源満仲によるものが大きいと考えられます。和田八幡宮は式内社には含まれていません。延喜式神名帳は延長5年(927年)にまとめられた由緒ある神社をまとめたものでどちらかというと地域の古代豪族や権力者の信仰に近い。しかし、八幡信仰は延喜式神名帳以降、急速に広がったいわゆる武士の台頭によるものが大きい。源氏の氏神・八幡大菩薩は源氏の影響力が全国に広がっていく中、共に広がっていったと考えられます。ちなみに平氏は厳島神社が有名ですが、牛頭天王やスサノオなど祇園信仰との関係が強く越前国では織田町の剣神社などが有名です。
3,木曽義仲が京へ上る際の必勝祈願に!
源満仲によって越前国内に一気に広がった八幡神社。その八幡神社が木曽義仲が京へ向かって進軍したとき越前の歴史の表舞台に多く登場します。
まずは、福井市古市町の古市八幡神社。この神社は木曽義仲がこの地に本陣を置き神像を自ら彫り若宮八幡宮として創建したのが始まりと伝わる神社です。京都へ向かう木曽義仲が九頭竜川を越えこの地に本陣を構えたことが分かります。当時、この古市地区は九頭龍川の舟運と北陸街道の陸運が重なる交通の要所として栄えた地域。多くの軍勢を引き連れた木曽義仲は必然的に物資の豊富な古市地区に陣を構えると考えます。
拝殿の上に独特の彫刻が彫られているはこの神社の特徴だと思います。
そして、越前市国兼に鎮座する大塩八幡宮も木曽義仲と関係の深い神社として有名な神社です。こちらも本陣を置いた場所とされ現在も陣跡が残ります。
もともと古い歴史のあるこの大塩八幡宮。のちの南北朝時代にも瓜生氏がここに陣を構えたとされ山城として整備されていき福井の歴史には欠かせない地域のひとつです。
沢山の説明や案内板があるなかこの手作りの木曽義仲軍の配置図が素晴らしい!この配置図の案内文をここに書き起こさせていただきます。
『 大塩八幡宮付近に於ける木曽義仲軍古戦場配置図
鎌倉時代・源平合戦の中期、寿永二年(一一八三年)五月中旬、木曽軍は越中倶利伽羅合戦より加賀・篠原(片山津付近)合戦に大勝して敗走する平家軍を追い都へ侵攻する為、この地で作戦会議と陣立を行った。
その当時の軍勢は五万と云われている。(一説には三万ともいう)
しかし軍の陣立配置は行ったが合戦はなく、大将木曽義仲はこのお宮で戦勝を祈願した。
この時、当宮の拝殿が兵士の失火により焼失した為、急ぎ近くの杣山日吉山王社の拝殿を引取り、三日三晩にて建物を移し建てたという。(現在の重要文化財・拝殿)
当地は北陸道間近にして、東は日野川(救羅川)を挟んで日野山(小健山)を望み、ここより越前平野が拡がる要害の地にして、其後この地を含め大塩・南条付近では北条執権時代を経て建武中興に至るまで二十一度に及ぶ戦いがあったという。
左図は当時の木曽軍の配置図を古い記録等により再現したものである。
(参考 八幡神司伝奉記より) 』
この案内文を読むと木曽義仲がこの地に滞在中に火事があったことが分かりとても興味深い内容です。
神社に伝わる木曽義仲の話をまとめると越前での動きがよく分かります。ただ、木曽義仲は2度越前に侵攻しています。1度は越前をあっという間に進軍した木曽義仲を迎え撃つ燧城で白山平泉寺の裏切りにあい敗退。越中まで下ることになります。その後、倶利伽羅峠の戦いで勝利した木曽義仲は再度、越前に進軍。その時は篠原の戦い(加賀市篠原町)で勝利を収め逃げる平氏を蹴散らしながらの進軍となっておりどちらの時の話か分からない話もあります。
八幡神社と源氏は切っても切れない繋がりがあり、江戸幕府を開いた徳川家康も清和源氏の流れを汲むので越前国は八幡神社との繋がりはとても強いことが分かります。武士に愛された神社と呼ばれた八幡神社は源氏のそして徳川家の歴史との関係があり、その八幡神社の御祭神・応神天皇や神功皇后は敦賀と深い関係がある。
今回の記事では大まかに八幡神社と越前国の関係性を書きましたが、神社ひとつひとつに焦点をあてていけばもっと細かな歴史書に載っていない話も出てきます。八幡神社関連の記事も少しづつですがアップしていきますので是非、チェックしてください!
越前の八幡神社群と木曽義仲の関係、とても勉強になりました。