
慶長5年(1600年)9月に起きた関ケ原の合戦。関ケ原の戦いは全国で東と西に分かれて戦いが行われていました。そして、ここ北陸でも東と西に分かれての戦いが行われました。大聖寺の戦いと浅井畷の戦いです。北陸最強の軍事力を持つ東軍・前田利長の大軍勢を越前加賀の西軍が迎え撃つ北陸の関ケ原とも呼ばれるこれらの戦いをここでまとめてみました!

関ヶ原の戦い 前哨戦
〜織田家臣、二代目同士の戦い〜
関ヶ原の戦い本戦の約1ヶ月前、北陸でも関ヶ原前哨戦となる大聖寺城の戦いと、浅井畷(あさいなわて)の戦いが起こりました。
この北陸の関ヶ原の主役となったのが、
前田利家の嫡男、『前田利長』(東軍)
丹羽長秀の嫡男、『丹羽長重』(西軍)
です。織田信長家臣、二代目同士の戦いとなったのです。

慶長5年7月、大谷吉継は石田三成が蟄居していた佐和山城にて、「家康を討つ」として挙兵を決意したことを告げられます。悩んだ末、三成に味方することを決意した吉継。ここからの大谷吉継の行動は素早いものでした。
まず、吉継居城の敦賀城(福井県敦賀市)に戻り、北陸方面の調略を始めたのです。北ノ庄城の青木一矩を皮切りに、越前ではほぼ全員の大名が西軍につく事を表明。しかし府中城(福井県越前市)の堀尾吉晴は東軍に与しました。
小松城の丹羽長重、大聖寺城の山口宗永なども誘いに応じた事によって、この時点で、越前のほぼ全域と加賀の半分を西軍に引き込む事に成功しました。
前田利長は父・前田利家の死後、徳川家康から目を付けられ『加賀征伐』を受けることになり家康に降伏。母の芳春院を人質として江戸に送っています。そのため関ヶ原に際しては東軍参加を早々に表明していました。

【大聖寺城の戦い】
7月26日、前田利長は2万5千の兵を従え出陣。金沢城を出て南下しました。
まず西軍 丹羽長重が籠る小松城がありましたが、前田利長はあえてこの小松城には攻撃せずスルー。小松城は泥地にある要害で難攻不落として知られていました。
その為、迂回し山口宗永のこもる大聖寺城を攻めました。
8月1日に大聖寺城の東方の松山城から降服を促しますが、宗永はこれを拒否。そして8月3日に総攻撃。激しい攻防の末、大聖寺城は落城、山口宗永は自刃しました。利長は大聖寺城を落とした後、そのままの勢いにのって越前(福井県)に入り、北ノ庄城へと向かいました。

しかし利長は、突如として金沢に引き返します。とある急報が利長のもとに届いたのです。
「大谷吉継らの別働隊が、金沢城を奇襲すべく海路で北へ向かっている」
「上杉景勝が越後を制圧して加賀をうかがっている」
「西軍が伏見城を落として上方を全て制圧し越前北部に援軍に向かっている」
これらは、大谷吉継が流したデマでした。
偽情報を信じた利長は急いで軍勢を引き返させました。
【浅井畷の戦い】

前田軍の撤退を聞いた丹羽長重は、軍勢を率いて小松城から出撃し、浅井畷(小松城の東側に広がる泥沼や深田に広がる幾筋もの細い筋になっている道)にて前田軍を待ち伏せします。
畷(なわて)を通る時には、隊列が伸びてしまうため、大軍であっても戦いにくい。長重はそれを狙っていました。
前田軍の先鋒は丹波軍による奇襲を受けました。前田軍は混乱に陥ってしまいます。それでも、長連龍らの活躍により、追撃を振り切った前田軍は、8月10日金沢に帰城しました。
この浅井畷の戦いで、前田軍、丹波軍、共に多数の死傷者を出したといわれています。
このあと前田利長は家康から出陣命令が出て出陣しようとしますが、弟の前田利政が出陣を拒絶したため、出立が遅れてしまいます。結局、前田軍は関ヶ原本戦には間に合いませんでした。
【水堀が巡らされ浮城と呼ばれた小松城】

北陸の関ヶ原では『難攻不落』として前田利長に攻略を諦めさせた小松城。
小松城は、もとは加賀一向一揆宗の砦として築かれたと考えられています。しかし、加賀一向一揆宗は織田信長の重臣の柴田勝家によって滅ぼされました。
勝家が滅ぼした後は丹羽長重の与力だった村上頼勝が小松城主となり、頼勝が村上に転封された後は、長重が城主を継ぎました。1600年、関ヶ原の戦い後は前田家の所領となります。
江戸時代になると、小松は加賀藩に属し、小松城は一国一城により廃城となりました。しかし、加賀藩主の前田利常が隠居すると、幕府に許可を貰った上で小松城を大改修し、1640年に入城。
小松城は、石垣の構築、二の丸、三の丸の増築など大規模な改修が行われました。現在残っている城跡はその時以降のものです。
城郭検定でも出題されてました。
『一国一城令で廃城となったが、前田利常の隠居城として再建され、明治まで存続した城はどれか』
答えは小松城です!🏯
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