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執筆者の写真泉州 閑爺

古気候学的 鯖波 鯖江 海湾入江の形成検証(第4話)

更新日:2023年2月28日


「鯖江や鯖波の地名は、縄文海進の時代には、サバ(鯖)が多く獲れた海湾入江であったことに由来した。」とのサバ読み仮説を検証する為、先ずは「海の存在」を以下に考察する。


1. 紀元前約7万年前に始まり、約1万年前に終了した最終氷期に於ける日本列島の約2万年前の海水位は、現在の海水位に対し約▲120m~▲140m(諸説あり)も低下していたと言われる。

その結果、日本列島は、対馬海峡辺りで、陸橋が形成され大陸に地続きで繋がっていた。又、現在では海底下にある大陸棚も、下の図3.29に示す通り、現海岸線から張り出した形で海面上に現れ、陸地化していて、古九頭竜川も、河口では広大な三角州を形成し古日本海に流れ込んでいた等々の定説がある。


2. 紀元前約2万年前から約4千年前をピークとする地球規模で海水位が上昇し始めた「縄文海進」時代には、福井平野は「古九頭竜湾」と呼ばれる「海湾」で覆われていたことも定説である。

地元の地質学者:福井大学(故)三浦静名誉教授の論文<1992>では、縄文海退期に入った約5000年前頃の古九頭竜湾の南部迄の湾域は、上の図6・6に示された通り、深さ10mの水深線で示された「江守」及び「江端」辺り迄と“推定”されている。

一方、同論文に掲載されている上の図6・5「縄文海進時の古地理」に描かれたイメージ図には、古九頭竜湾の奥行が、三国から約12~13km辺り迄の表示となっており、同論文の図6.6で表示された古九頭竜湾と異なり、湾域が極端に縮小している。 また、古日野川や古九頭竜川が形成した筈の深い比高(高低差)を有する河岸段丘の存在、及び、鯖入江や鯖波峡湾の存在については全く言及されていないのが、専門的論文として気になるところである。

この度の「サバ読み考察」に関連し、故郷の知己、多くの専門家や学芸員の方々に情報収集の為コンタクトした過程で、上記、三浦教授の「縄文海進時代の古九頭竜湾は水深の浅い小さな内湾であった」との仮説が、現在でも、福井県内における専門学界や教育界に於いて、定説や通説として固定観念化している可能性があることを強く感じた。


3. しかしながら、次に示す通り、三浦教授の学説は、筆者の「サバ読み仮説」を検証する意味で、貴重で十分な傍証となっている。 

即ち、上記学説に基づき、縄文海進ピーク時の6000年前頃(海面は更に約1.5m程度高い現標高19mレベル)の古九頭竜湾の海岸縁を、iPadの簡易ソフト「スーパー地形」でシミュレーションすると、鯖江台地を挟んで、東側、三里山西麓付近の越前市下新庄町辺りまで、そして、西側、日野川沿いでは鯖江市豊小学校・下氏家町辺りまで、古九頭竜湾域である水深0m~3mの鯖入江が広がっていた様に単純表示される。

第3話の「三里山 波打岩の伝承」では、謎解きの如く、古代における鯖入江の存在を民族歴史学的に紐解いてみた。

この第4話では、地質調査で検証された縄文海進時代に古奥東京湾が存在したこと示すデータを参考にして、現代の武器、GoogleMapベースのP/Cソフトでシュミレーションすれば、その存在を類推・見える化できた。

遺跡・遺物の発掘・検証や綿密な地質調査が求められる実証考古学的手法を取らなくとも、P/Cやインターネット等、ITC技術を活用すれば、素人でも容易に海湾入江の存在やハザート地区をイメージ的に調査・検証できる時代となった。     以上

<第5話に続く>     泉州 閑爺 



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