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執筆者の写真泉州 閑爺

地形と古地名が紐解く古代歴史ロマン(第7話)

更新日:2023年4月4日


「鯖入江」と「鯖波峡湾」の存在を可視化するイメージ図を作成結果、地形と遺跡や古地名等の分布から、我が故郷の古代歴史ロマンを次の通り紐解くことが出来きる。


1. 「古九頭竜湾」と「鯖入江」に於いては、図①で表示した通り、鉾ヶ崎・浅水⇔江守⇔清水町・志津川(以下、「志津」)を結ぶ3つの狭隘部が、古代からの鯖入江と古九頭竜湾の”地形的“分岐境界に見える。 縄文海進ピーク時には、これ等、仮称「江守水道」と「志津水道」の狭隘部が、鯖入江と古九頭竜湾の本流接続水路となっていたと比定できる。

2.  鯖江台地西側に比較し、東側の鳥羽・江尻付近以南は、早い時代から、越前中央山地から流れ出る複数の河川が複雑に蛇行し氾濫原を形成、鯖江台地が自然堤防となり浸食土砂が大量に堆積し標高も高くなっていたと推定できる。従い、縄文海進ピーク時には、鯖江台地東側は、「(浅江)→横江」と呼ばれ、西側は、古日野川の河岸段丘沿いに深い水深の入江を形成、「深江」と呼ぶ地名となったと思われる。


3. 「鯖波峡湾」と「鯖入江」は、岩内山「杉崎」⇔村国山⇔北府(キタゴ)遺跡⇔丹生郷遺跡で結ぶ線が、鯖波峡湾と鯖入江を分ける境界線であった様に見える。

縄文海進以前には、古日野川や古吉野瀬川等から流出する浸食土砂が出口部にあたる旧武生地区で複合扇状台地の「武生台地」を形成し、その台地が自然堤防となり、古日野川の流れは「白崎」を過ぎた辺りから、東側に蛇行し村国山と岩内山を回り込む形で、鯖入江に流れ込んでいたと比定出来る。 従い、縄文海進のピーク時には、鯖入江は、村国山と岩内山を回り込む形で蛇行し狭隘な仮称「杉崎水道」を形成し鯖波峡湾に繋がっていたと類推できる。


4.  縄文海進時の鯖波峡湾と古九頭竜湾を繋ぐ水路に、上記2ケ所の「狭隘接続水道」が存在したことは、その海域では潮の干満時に早い潮流を発生させ、プランクトンや小魚類が活性化・繁殖し回遊魚の鯖等も居付き豊漁地となった要因と類推できる。又、越前縄文人は、当然のことながら、約4千年間もの海進期間に、月齢と潮汐を見て、古代船の運航や漁労にも、海流・潮位の変動を有効に且つ、つぶさに活用していたと思われる。

 

5.  縄文古地名と比定出来る「江守、江尻、鉾ヶ崎、鳥羽、吉江、深江、船津、横江」等の殆どが、海湾入江の海上域では無く、湾岸高台や上位段丘付近に位置しているのも海湾入江の存在を裏付

けている。 これ等古地名は、まだ街道・陸路も乏しく、海湾、或いは、湖沼時代の水路交通が盛んであった頃の各地の湾岸・水辺の地形や特徴を表す地形由来の古地名であったとの通説も残っている。 

現在の鯖波谷底平野に、忽然と「鯖波」を筆頭に、「関ヶ鼻、嶋、大塩、白崎、松ガ鼻、杉崎」と縄文起源と比定される「海に因む古地名」<今井欣一2014>が残るのは、この度の「サバ読み考察」の大きな発見であった。 これ等地名は、縄文越前人が漁業や舟の運航時の「山だて」に不可欠な「土地の特徴」を示し共有した筈の古地名であり、海湾入江が明らかに存在した傍証でもある。


6. 「関ケ鼻」は鯖波峡湾への関門を示す岬を指し、大塩(オオシホ)は製塩業を生業とする村落が多く存在した地域を指したであろう。 「白崎」は海岸に露出した南条珪石系岩壁岬で、朝日に照らされると岩壁が白く発色し輝いていた特徴を示す地名由来と比定できる。「嶋」は海上に現れた島を示し、「松ヶ鼻」や「杉崎」は、縄文信仰の自然神として崇められた松や杉が、際立って繁茂する神の宿る小岬を指したであろうことは、6千余年を経過した現在でも、誰にでも容易に推察できる。

海に因む地名「杉崎」が、古日野川本流より逸れた田園地帯に残っているのが不思議で謎でもあった。 しかしながら、鯖波峡湾と鯖入江が、村国山と岩内山を回り込む「接続狭隘水路」で繋がっていたとするなら、縄文海民が、天高く生え繁る杉の大樹に覆われた岩内山北端岬を神々しく望み「杉崎」と呼んだ筈と、その謎が解けた。 因みに、岩内山の北端高台には、古地名を社名に冠し縄文神道が創祀源と推定できる「杉崎神社」が今も鎮座していることが判った。


7. 更に、縄文海神神道の集団祭祀所に繋がると比定できる「金刀比羅神社」合計13社に加え、縄文起源の古地名を冠する神社4社の合計17社が、鯖波峡湾と鯖入江の湾岸高台に、6千余年の時空を超え、今に厳然と鎮座している。

縄文神道の祭祀場は、当然のことながら集団生活の中から発祥した集団祭祀場で、漁猟を生業とした古越前地区では「海の祟りに畏怖の念を持って祭壇を造り崇め祀り、安全と豊漁を集団祈願する海洋信仰」も盛んであったと比定できる。 

従い、縄文海洋信仰の勃興に伴い、この地域の連帯・部族意識を醸成し高揚させたであったろうこと、更には後述する「サバエ王国」誕生に繋がった筈と人類歴史学的にも類推できる。

8. 恐らく約4千余年間にも及ぶ海進期間中に、舟を活用した海洋漁業の発展は日本海沿岸での交流・交易をも活発化させ、越前縄文人は海洋民族化した筈だ。 そして縄文後期辺りには、東シナ海文明交流圏にも属し大陸文明の影響も受け始めると同時に、内外の敵にも脅かされ始めた時代でもあったであろう。


好漁場であった鯖入江の中心に位置する鯖江台地は、舟運交通の要衝となり交易市場としても賑わった筈だ。その微高地「王山」は、眺望良く古九頭竜湾辺りまで監視でき、外敵の侵入を防ぐに適した「鯖入江」に守られた自然要塞の地形であることがイメージ図からも読み取れる。


9. 先人の残した「古地名と地形は秘めた歴史を物語る」や「王権形成の背景に海民あり」との歴史格言の通り、縄文晩期頃には、鯖波峡湾と鯖入江を領海とする海民集団の中から強権な統治者が台頭し、鯖江台地の微高地に要塞を築き定住したのが「王山」の地名由来で、その後の古代「越国」を支配した「サバエ王国」発祥・縁の地と言えるのではないだろうか?

また「鯖入江」の北端狭窄部であった「江守」や2ケ所の「城山」は、サバエ王権の領海である「鯖入江」を守り、出入りする舟の監視と外敵に対する威嚇目的の砦や狼煙台があったのが地名由来と古代歴史ロマンを物語ることが出来るのである。               以上

                            <第8話に続く> 泉州 閑爺

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