戦国時代・朝倉義景終焉の地として知られる大野市。大野市は大野郡と呼ばれそこを治める者は大野郡司と呼ばれ越前朝倉家では朝倉本家に次ぐ権力を持ったとされます。そんな影響力を強く持つ大野郡司を務めた朝倉景鏡(あさくらかげあきら)は一乗谷が燃えさかる中、織田信長に朝倉義景の首を差し出した。大野市には今でも戦国朝倉家の想いが多く見られます。そこで大野市に残る朝倉家の想いをピックアップ!紹介していきます!
大野郡を治めた初代大野郡司・朝倉光玖の名が残る光玖寺
家臣・岩本某が主君を弔う!神明神社
大野郡の居城・亥山城跡が残る日吉神社
朝倉義景最後の地・曽源寺にあったとされる賢松寺
家族や家臣と共に!朝倉義景の想いが強く残る墓所
1,大野郡を治めた初代大野郡司・朝倉光玖の名が残る光玖寺
室町時代の大野市は斯波氏の影響力が強く、斯波氏が最後まで朝倉氏に対抗していた地でもあります。そんな斯波氏を駆逐し大野郡に安定をもたらしたのが朝倉光玖(あさくらこうきゅう)です。朝倉光玖は7代当主の朝倉孝景の弟にあたります。この朝倉孝景は法名から英林孝景と呼ばれ越前国平定を成しえた人物で戦国朝倉家の始まりともいえます。この朝倉孝景を補佐し支えたのが弟・朝倉光玖です。ちなみに朝倉家の全盛期に活躍した朝倉宗滴はこの孝景の子供にあたり朝倉光玖の甥っ子になります。
当時の大野郡を見てみると戌山城(大野市犬山)に斯波氏、亥山城(大野市日吉町)には斯波氏を支えた二宮氏が幅を利かせていました。また、勝山市には白山平泉寺の勢力もあり朝倉家が越前を治めるにはこれらの勢力への対応を考えなくてはならない状況でした。
そんな大野郡で斯波氏・二宮氏を滅ぼした朝倉孝景は白山平泉寺とうまくやっていくために僧でもあった弟の朝倉光玖に大野郡を治めさせ大野郡司という役職を与えました。この大野郡司は朝倉本家に次ぐ地位と考えられ同じ敦賀郡司とともに越前朝倉家を支える3本柱のひとつとされました。
そんな朝倉光玖が住んでいたとされる光玖寺。江戸期に藩から援助を受けていた寺町通りのお寺に比べれは小さく華やかさはありませんが朝倉光玖の名前を今に残す貴重なお寺です。
2,家臣・岩本某が主君を弔う!神明神社
光玖寺から南東に2.3分ほど歩くと神明神社(大野市大和町)が鎮座しています。朝倉義景が自害した後に朝倉家に仕えていた岩本某が主君を弔うために仏門に入りここに神明神社を勧請したと伝わります。
この岩本某という方は朝倉家臣時代は洞瀬坊と呼ばれていたが修験道に入り岩本坊宗祐と名乗ったとあります。岩本氏といえば越前市岩本町の岩本氏。近くに大滝神社があり神社に残る書物に岩本町を治める者として岩本氏がある。この記録は長享元年(1487年)のもので朝倉氏の時代とかぶっているので関係性が強いと推測できる。大滝神社は大滝城や神仏習合として大滝寺としても影響力を持っていて越前朝倉氏が再興させた歴史がある。織田信長の越前侵攻の際には滝川一益が大滝城を落としたとされ、その後は軍事的な拠点としての記録はない。
これらを考えると越前市岩本町の岩本氏とこの神明神社に伝わる岩本氏は何かしらの関係があると個人的には考えます。今後の深堀りポイントです。
3,大野郡の居城・亥山城跡が残る日吉神社
大野城以前の大野の中心地として欠かせないのは現在の日吉神社にあったとされる亥山城(いやまじょう)です。その歴史は古く南北朝時代にまでさかのぼります。そして室町時代には斯波氏の家臣・二宮氏の拠点とし最後まで朝倉家と戦いました。斯波氏や二宮氏に勝利した越前朝倉氏はここを朝倉光玖に治めさせ大野郡司という地位を与えました。その後、朝倉義景の時代には朝倉景鏡が大野郡司を務めここを治めました。
神社向かって右手には水堀が残っています。当時は城全体をお堀が囲み、水が湧き出ていて澄んだ水に水草が茂っていました。また、この堀を造る際にでた土砂を盛り上げて城を造ったと言われ、現在の日吉神社本殿の場所は結構、高い位置にありもしかするとここはお堀の土砂を盛り上げて造られた城の本丸だった可能性があります。湧き出る水を利用した平城で名水百選にも選ばれる大野市らしいお城ともいえます。
境内の説明には城主として朝倉景鏡、杉浦壱岐、原彦次郎の名前がありました。朝倉景鏡は朝倉時代の大野郡司、杉浦壱岐は杉浦玄任のことで加賀一向一揆のリーダーであり一向一揆が越前を治めてた頃は加賀の一向一揆がここ亥山城を拠点にしていたことが分かります。原彦次郎は原長頼のことで金森長近が大野を治めた時に一緒に大野を管理した武将です。金森長近が大野城を築城し完成すると亥山城は廃城とされ原長頼は勝山城に移りました。
4,朝倉義景最後の地・曽源寺にあったとされる賢松寺
現在は曽源寺がある場所に朝倉義景が自害したとされる六坊賢松寺があったとされます。始め朝倉義景は一乗谷から大野市清瀧にある洞雲寺へ逃げたが頼りにしていた白山平泉寺が織田方に寝返り洞雲寺を襲おうとしたため賢松寺へ移ったとされます。
この白山平泉寺の寝返りは朝倉義景だけでなく朝倉景鏡にも大きな精神的ダメージがあったと考えられます。白山平泉寺の寝返りで朝倉氏の希望は完全に断たれました。
よく朝倉景鏡は裏切者と言われますが、この時点で朝倉義景を支えることは難しく自分の家族や家臣、大野の街を守るためには裏切りは致し方ない状況でもあります。朝倉始末記には朝倉景鏡は陰湿なイメージで書かれていてそれが現在の朝倉景鏡のイメージになっていますが、ギリギリの判断だったと感じます。
朝倉景鏡は200名ほどで寺を囲み朝倉義景を襲撃したとされ鳥居景近などの義景の近臣と一旦は争いになったが死期を悟った義景が争いを止めさせ自ら自害したとされます。
5,家族や家臣と共に!朝倉義景の想いが強く残る墓所
朝倉義景の墓所は一乗谷にもありますが、ここ大野市の曽源寺の近くにもあります。義景公園と言われる公園の一部に木に囲まれた墓所があります。ここには朝倉義景に最後まで付き添った家臣・鳥居景近と高橋景倍の墓もあります。義景の石塔の横に石が二つ並んで今でも朝倉義景の横に付き添っているような気がしました。そしてその後ろには朝倉義景が愛した小少将のお墓があります。祥順院(小少将)と墓石には刻まれていますが側面には高徳院(義景の母)とも刻まれています。反対の面は愛王丸(義景の息子)と考えられ義景の大切な家族3人が合祀されているとされます。この3人はここ大野市で亡くなったのではなく朝倉景鏡によって織田信長に差し出されましたが、最終的には殺されてしまいます。その霊を弔っているという事になります。
今回紹介した5か所は歩いて巡っても30分ほどで、この辺りの当時の状況を考えると大野郡司・朝倉景鏡の強い管理下にあり織田信長は一乗谷の戦いの最中だったと考えられます。
大野市は斯波氏が最後まで朝倉氏と戦った地で越前朝倉氏誕生の地でもあり朝倉氏終焉の地にもなりました。朝倉氏にとっては深い因縁がある地とも言えます。最後にここ大野で朝倉義景は何を想い自害したのか?織田信長に差し出された小少将や義景の家族はどのような想いで織田信長と会ったのか?その想いを少しでも感じられる地がここ大野市でもあります。
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