この兵庫郷は河口庄の中でも中心的な郷の一つとされます。本庄、兵庫、細呂木郷を中心に関、大口、王見、溝江が分立。その後10の郷ができたと考えられます。また、本庄、兵庫、細呂木の郷で河口庄の半分以上の田んぼを有していたといわれています。(えんりゅう・兵庫地区まちづくり協議会を参照)
これほどまでに栄えた理由としてはやはり兵庫川沿いの為、田畑への豊富な水源が理由の一つに考えられます。この春日神社の前を流れる兵庫川の向こう岸には井向地区があり『井』は川の意味もあるのでこの井向地区は川の向こう側という意味があると思います。そう考えるとこの春日神社を中心に兵庫郷は考えられていると思います。もう一つ、兵庫川の向こう岸の地区に清永地区もあります。清永地区と対する地区に下兵庫舟津地区がありますのこの2つの地区は舟で結ばれていた可能性が高いと思います。
中世に入ると兵庫郷は宗教都市としても栄えることになります。春日神社を護持する神宮寺、真言宗智山派で坂井町最古の大善寺、浄土真宗高田派の西光寺(現在は供養塔が建つ)。また、長福寺、勝光寺、全昌禅寺、照圓寺、それに30近い神社。宮殿に桜閣、七堂伽藍、鐘桜など多くの寺社仏閣が立ち並び、さらに上兵庫地区には兵庫城と呼ばれる館もありました。
しかし、天正年間の織田信長と一向一揆の戦いの際に、そのほとんどが焼失します。そんな中、神宮寺の庭園の一部と考えられている淵竜の池はその繁栄を今に伝える数少ない遺産です。池の中に建てられた五層の塔は地、水、火、風、空の安泰を祈念したものです。
兵庫郷、まだまだ深堀りできそうなのでもっといろいろ調べてみたいと思います!
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