
真田幸村こと真田信繁といえば大坂の陣で活躍し戦国武将の中での人気は1,2を争います。そんな人気の真田信繁と大坂夏の陣で激突したのが越前国北庄藩の松平忠直でした。徳川家康の孫にあたる松平忠直は1万5千を率い徳川方の期待を一身に受け戦いに挑みましたが前半戦では期待に応えられず家康に叱責を受けるなど後に引けない状況にまで追い込まれました。大坂夏の陣の最後の戦い天王寺・岡山合戦での松平忠直の思いは凄いもので抜け駆けをしてまでも先へ先へと真田信繁が陣をはる茶臼山に突撃をしています。

■大坂の陣の戦いのひとつのラインは茶臼山
茶臼山で本陣を置いた真田信繁は家康の首を取るしか勝つ道はないと考え松平忠直率いる越前15000と激突するもそこを突破し家康本陣にまでたどり着きます。家康は逃げまどい馬印は倒されたと言われます。
茶臼山山頂には六銭紋が刻まれた石碑があります。裏には徳川家の葵の御紋。大坂冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田信繁が陣を置いたまさに大坂の陣がここ茶臼山で起きていたと言ってもいいぐらいの要所。 夏の陣での大坂方の防衛ラインのひとつと考えられます。

大坂夏の陣図屏風のど真ん中に真田信繁と松平忠直が激突する様子が描かれています。

■善戦むなしく散る真田信繁
数に勝る徳川軍は家康の窮地を聞きつけ続々と駆け付けました。そんな中、松平忠直隊は真田隊に向けて徹底反撃を加えます。次第に真田隊も力尽き撤退を余儀なくされます。これに毛利勝永隊も合わせて撤退。ここに豊臣方の敗北が決定付けられました。
そんな真田信繁は天王寺区逢阪に鎮座する安居神社の松の木の下で疲れ果てていたところを松平忠直隊の鉄砲頭・西尾宗次によって討ち取られました。

この討ち取られた際の話もいくつかあり信繁本人が自分を切って首を手柄にするように言った。または西尾は誰かわからずに敵を討ち取り後にそれが真田信繁だと知った。休んでいる真田信繁を不意打ちしたなど数多い。
徳川家康でさえ真田信繁ほどの武将が無名の鉄砲頭に討ち取られるはずがないとかなり疑問を感じたと伝わります。
真田信繁が日本一の強者がゆえのエピソードともいえます。

■その後の越前国と真田信繁
最終的に豊臣家が滅んだ大坂の陣での越前隊の活躍は絶大でした。討ち取った首の数はトップの3750、大阪城へは一番乗りで突入しました。そして、真田信繁隊を壊滅へと導き真田信繁をも討ち取りました。
そんな戦功第一の松平忠直に与えられた褒美が初切という茶入れでした。織田信長愛蔵の品で豊臣秀吉も茶会で自慢げに使用したことで天下人をアピールしたとも伝わります。しかし領地の加増のなかったことに忠直は大きな不満を持ったと言われます。

一方、真田信繁を討った鉄砲頭・西尾宗次(久柞)は討ち取った真田信繁の首や鎧袖を菩提寺であった考顕寺(福井市足羽)にて首塚を造り菩提を弔ったと伝わります。しかし、真田家から首を奪われることを恐れた西尾家はその首を更に別の場所に弔ったと言われその場所は西尾家一子相伝の秘密とされました。
現在、真田信繁を弔ったといわれる考顕寺は大きく様変わりしコンクリート造りのお寺に境内はアスファルトの駐車場で覆われています。もちろん、真田信繁のことについての案内板はありません。

そんな中、西尾宗次によって建立された真田地蔵は私たちが知ることができる数少ない現存する資料です。笏谷石製の地蔵菩薩の裏には
『元和元寅年 大機院真覚英性大襌定門 三月初七日 西尾氏立之』
と彫られている。大機院真覚英性大襌定門は真田信繁の法名であり、元和は大坂の陣が終わった年だ。これは真田信繁を弔うために西尾氏が建立した地蔵菩薩と考えても間違いなさそうです。現在は、福井市立郷土歴史博物館にあるこの真田地蔵は考顕寺の境内にあったと言われます。

一説にはもともと考顕寺の境内だった場所が都市開発による足羽トンネル建設に伴い道路になりました。そこはもともと墓地でそこに真田地蔵があったのではないかと言われています。
真田信繁の首塚探しは越前国の伝承を深掘りしているこうづけのすけさんのホームページにて詳しく記載されているのでご参考までにご覧ください!

大坂の陣の後の松平忠直は乱行が目立ち最終的に隠居・配流されてしまう。
なぜ、松平忠直は乱行を続けたのか?
ひとつは制外の家と呼ばれる越前松平家の特異な家柄。正室・勝姫との不仲。そしてその発端となったのがこの大坂の陣だったことは明らかです。この大坂の陣での戦功は越前松平家には荷が重すぎたということになります。真田信繁を含む3750の首の重みに耐えれず押つぶれた格好だ。
これは松平忠直でなくても起きていた越前松平家の宿命だったのかもしれない。
もし本当に真田信繁がこの首をもって手柄にせよと言ったのならその意味は深く。それが真田信繁が最後に残した策略かもしれない。
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