top of page
執筆者の写真o_kataka

福井各地に残る葵の御紋は越前松平家の足跡!


 徳川家康の次男・結城秀康が興した越前松平家。2代将軍・徳川秀忠の兄であるのに将軍になれなかった結城秀康ですがその武勇から幾度も次期将軍の噂が絶えなかった名将と言えると思います。


 越前松平家がこの福井を治めた約260年間。1871年の廃藩置県で福井藩が終わってまだ150年しかたっていない近代史。越前朝倉氏が一乗谷で福井を治めたのは約100年と考えると越前松平家がこの福井県(嶺北地方)を治めた期間の長さは長くそして特別な物だと思います。そんな、松平家の葵の御紋は現在でも寺社仏閣では多く残りどの地域でも一つは越前松平家の話が残っているのでは?と思います。

 

越前松平家と深い繋がりのあるこの3つの寺社仏閣

火産霊神社は結城秀康が越前国に入国の際にそれまで治めていた下総国結城の遠州秋葉神社を分霊し創建されており結城秀康の越前国入国の際の思いや願いが詰まった神社です。

佐佳枝廼神社は福井県ではとても有名な神社のひとつで別名・越前東照宮とも呼ばれ徳川家康を祀っていましたが後に結城秀康や松平春嶽を合祀。まさに越前松平家の象徴的な神社といっても過言ではありません。

そして大安禅寺。大安禅寺は越前松平家の菩提寺でありすべての藩主の墓石が立ち並ぶ千畳畳の規模やその気品あふれる雰囲気は圧巻です。

 

越前松平家から派生し誕生した藩ゆかりの神社として松岡藩2代藩主・松平宗昌が造営した柴神社。柴神社は式内社とも比定される歴史のある神社。鎮座するその地に松岡藩の館を構えたため柴神社は遷座し現在地となりました。これは丸岡城と国神神社の関係と同じであり、遷座された神社は藩や城の鎮守と崇められ篤く信仰されます。


同じ時期にできた吉江藩。その遺構はほとんど残っていませんが鯖江市吉江町の吉江神社は松平吉品をご祭神としていてこれは初代吉江藩主の松平昌親の後の名前。松平昌親は福井藩の5代藩主に就くことになりそのことで吉江藩は廃藩。しかし、この松平昌親公はこの吉江の地域での税金や年貢を徴収の多くを免除した為、吉江地区では感謝の気持ちを込めご祭神としたと考えられる。


和田八幡宮にも葵の御紋があります。松平家は清和源氏の流れをくんでいるとされているため和田八幡宮と関係の深い清和源氏の源満仲はご先祖様。和田八幡宮を篤く信仰することは松平家の血筋を正当化する意味もあると思います。これは清和源氏の新田義貞を祀る藤島神社も同じように越前松平家は篤く信仰しました。

 

変わり種といえば栃原神社でご祭神には福井藩最後の藩主・松平茂昭をアマテラス・イザナミとともに祀っています。これは度重なる洪水で栃原地区は疲弊しその窮状は明治元年(1868年)に極限に達した為、福井藩に訴えたことにより年貢などは免除されそのことにより地域は復興を遂げた為、その頃はすでに明治に入って華族となっていた越前松平家に許可を得てその時の藩主・松平茂昭公を祀り御紋を利用したとあります。


あまり情報がないのが福井市栗森の八幡神社と永平寺町松岡光明寺の白山神社です。

推測ですが、この辺りは木曽義仲の話が多く残る地域。木曽義仲も清和源氏の流れをくむ武将。もしかすると木曽義仲と関係することから越前松平家と関係が深かったと考えられます。

 

まだまだ葵の御紋はこの越前に多くあります。またご紹介したいです。北陸では前田家が治めた加賀・能登・越中にはない葵の御紋が多くみられる越前。ありがたく拝謁させていただきます!

Comments


bottom of page