福井県内に広がる継体天皇の伝説。それらは現在でもそれぞれの地域に鎮座する神社の社伝やその地域の伝説として今に語り継がれています。そんな継体天皇の話を享保2年(1717年)に御祭神を継体天皇とする足羽神社の神官の足羽敬明がまとめた『足羽社記略』に書かれて大きく越前国中に広まりました。
しかし、この『足羽社記略』は創作が多かったといわれ近年、福井大学の佐久高士教授に多くを指摘され沢山の方が批判するようになります。『足羽社記略』が書かれて指摘されるまでの約200年間、その話は社伝として各地に残り現在でも多くの話が残っています。それを知ってから継体天皇の伝説に大きな疑問を抱くようになりました。そこでなぜ『足羽社記略』は創作の話を広めたのか?それが現在も多く残っているのはなぜか?を考えていきたいと思います。
1足羽神社の神官はなぜ継体天皇の偽りの話を書物にしたのか?
2各地に残る継体天皇の話はどこまで本当なのか?
1. 足羽神社の神官はなぜ継体天皇の偽りの話を書物にしたのか?
足羽神社にある足羽宮碑は文政13年(1830年)継体天皇崩御1300年を祈念とし建立。亀の上に建つ珍しい碑、雨ごいの信仰を伝える。足羽神社は継体天皇が越前在住の時、現社地に大宮地霊(おおみやところのみたま)を奉祀して越前平野の治水工事を起こし、後に皇位継承し大和に上がる際、自らの活霊をも祀り、神事を馬来田皇女に託したのに始まる。(足羽神社境内の立て看板の説明より)
享保2年(1717年)にまとめられた『足羽社記略』はある目的のために作られた書物だといわれています。それは足羽神社に祀られている継体天皇の凄さをアピールしこの越前国は隅々まで継体天皇が築き上げた国であるということ。そのことを広めることによって継体天皇をご祭神とする足羽神社の権威を高め越前国は特別な国だと広める狙いがあったと考えられています。現在はこの『足羽社記略』は福井県文書館が管理保管しており現物は見ることができません。
さらに問題を悪化させたのは継体天皇と関係の深い地域だと書物に記載された各地の神社や寺院が、権威ある継体天皇のゆかりの地としてそれらを社伝に残し地域の誇りにしたことです。自分の住んでいる村があの継体天皇や古事記などに登場する神々と深い関係があったといわれてイヤな気持ちになる人はいません。しかもあの足羽神社の神官が言っているのだから間違いない!と、思い200年以上それらの話は伝わってきました。その中で更に話は大きく尾びれをつけて広がっていったと考えられています。
まさに著者の足羽敬明氏の思惑通り現在でも多くの社伝に『足羽社記略』の話は残り地域で語り継がれています。
2. 各地に残る継体天皇の話はどこまで本当なのか?
ここに川西町史の本があります。昭和39年3月20日発行と記載されたこの本はまだ福井市川西地区が坂井郡に含まれてた頃に発行された郷土史です。とても興味深く、他の郷土史と比べ寺社仏閣の歴史や伝説が詳しく記載されている点や当時の越前国の状況と川西地区の結びつき、石高などの数字など細かな内容まで記載されているとても興味深い郷土史です。
その中で注目したいのは『足羽社記略』に記載されている川西地区と継体天皇との結びつきを批判し、ひとつひとつに細かく違う理由が書かれている事です。ここで2つほど郷土史に記載されている内容を抜粋してみます。
免鳥村
雌鳥浦は今云う免鳥村なり、応神天皇の女の雌鳥皇女の御名代なるか、これ矢田の皇女の妹なり
批判
書紀によると雌鳥の皇女は応神天皇の子であって、免鳥と結びつけるのは、全くのこじつけである。御名代は古代に於て、皇族の石を伝えるためにその居所につけた領名であった。足羽敬明は、古事記と日本書紀を熟読したと見え、書中の地名人名を一字なりとも越前地方の固有名詞に似通うものがあれば、むり無体に結びつ胆にけて、よくも大荒唐無稽、全くでたらめなこじつけを行っているのである。
※川西町史から抜粋※
福井市免鳥町に鎮座する八幡神社の神事・免鳥夜網節は西暦750年頃から伝わるといわれる。
郷土史でここまで批判するのは凄いことです。ちなみに記載されたままを抜粋していますので批判という文字もあり荒唐無稽(こうとうむけい)という4字熟語の前に大をつけているのも凄さを感じます。この4字熟語の意味は中身がないとか根拠がないなどの意味を持ちますがその4字熟語に大をつけるとは........
佐野村
佐野は旧字沙禰野に通ず、故に今の佐野を云ふか、意富富杼王の弟の沙禰王の旧趾なり
批判
釈日本紀の系図によれば沙禰王は継体天皇の曽祖父の末弟である。沙禰王の旧趾とは、例によって足羽敬明の無謀な独断である。
※川西町史から抜粋※
福井市佐野町に鎮座する賀寶神社の石柱は大きく離れたところにある。もともとそこまでが境内と考えるとかなり広大な境内だったと考えられる。
名指しでの批判が~。いち郷土史が足羽神社のまとめあげた書物を名指しで批判するというとんでもない郷土史です。
事実、私も糸崎浦、猫瀬村などの『足羽社記略』の記述は昔から信じていましたがこの郷土史には批判と解説が書かれています。
この川西町史には執筆者の欄に川端太平と書かれていて坂井郡川上町江上(現・福井市江上町)とあります。昭和39年(1964年)に発行されているので60年ほど前。この『足羽社記略』にここまで細かく反論するのはそれなりの知識が必要だと思います。この川端さんが直接、書いたのか地域の方々の話などをまとめあげたのかはわかりませんがこの川西町史は独特の方向性を持った郷土史として一石を投じたのではないかと思います。
現在も伝わる継体天皇の話。一度は疑いをもって聞いたほうがいいのかもしれません。
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