関ヶ原の戦いのあと越前68万石を拝領された結城秀康。徳川家康はなぜ結城秀康にこの越前国を与えたのか??
関ケ原の戦い後の徳川家康の疑念
結城秀康の役目を実行した多賀谷三経
結城秀康の崇める後世の福井藩
1、関ケ原の戦い後の徳川家康の疑念
関ヶ原の戦いの後、徳川家康が感じた脅威が3つあると考えます。ひとつはいまだ健在の豊臣家。石田三成などを討ち取ったとはいえ豊臣家には強大な財力があり、各地には豊臣秀吉子飼いの武将たちがいまだ健在でした。そしてもうひとつは加賀前田家の強大な軍事力。能登、加賀、越中の3か国の100万石を超える最大の大名に成長した前田家は徳川家を脅かす軍事力だけでなく他の大名に与える影響力も持っていました。そして最後のひとつは朝廷。天皇の威光は絶大なもの。その天皇のもとに仕える公家などがその威光を利用し徳川家に敵対すれば多くの武将だけでなく日本国民までが徳川家を認めることはないと考えられました。
そして、もっとも恐れたシナリオが前田家と豊臣家、そして朝廷が手を結ぶこと。それは徳川家に匹敵する軍事力・財力そして徳川家をも凌ぐ影響力が合体するということ。その為、地形的に加賀、大阪、京の3つのトライアングルにそれぞれ徳川家康が信頼する武将を置き監視徹底することを考えました。豊臣家を監視するのは彦根の井伊直政。徳川家康の家臣の中でも武力・知力を備えた武将で豊臣家だけでなく朝廷への目付けとしても存在感を発揮します。朝廷に対しては若狭の京極隆次を配置。京極家は室町幕府からの名家で本来は近江国などを支配していました。井伊直政と仲が良く京都・公卿補佐を務めていて公家や公卿との関係性が強かった大名です。
そして加賀前田家の監視役として抜擢されたのが結城秀康です。結城秀康は負けん気が強い武将で、関ケ原の戦いでは留守を任せられた宇都宮に攻めてこいと上杉景勝に挑戦状を送るなど大大名にも引けを取らない度胸が加賀前田家を監視するのに適していると考えられました。
越前の結城秀康、彦根の井伊家、若狭の京極氏を置くことで家康は最悪のシナリオ、前田家、豊臣家と朝廷が手を結ぶことを回避したい!その兆候をできるだけ早く感知したいと考えた配置を行います。またできるだけその兆候が表れる前に火種を消していきたいと考えていきます。そして真っ先にターゲットにされたのが加賀前田家です。
2,結城秀康の役目を実行した多賀谷三経
結城秀康は越前に入ると加賀との国境に近いあわら市細呂木地区に関所を設け重臣・多賀谷三経にあわら市柿谷地区付近3万2000石を与えました。その家臣団は200人にものぼったといわれ、山々に囲まれた田園地帯にできた異様な関所となったのではないかと考えます。
加賀前田家は江戸や大阪、京都へ向かう際必ずこの細呂木の関所を通らなければならず多賀谷三経は関所を通る前田家や加賀の人々を徹底的にチェックしたといわれ当時、日本一厳しい関所ともいわれました。
しかし、前田家の対応は早く、芳春院(前田利家の正室・まつ)が人質として江戸に向かうなどの徳川家に対して服従を明確にしたため、徳川家康のターゲットは大阪の豊臣家に移ることになります。
慶長11年(1606年)4月に結城秀康はこの越前で死去。病名は梅毒と言われている。関ケ原の戦いは慶長5年(1600年)9月15日ですのでこの越前国に住んでいた期間は約5年。その期間中も職務のため京などに赴いていたのでこの越前国にいた時間は短いですが関ケ原の戦いの後の越前国の方向性を示した貴重な期間となります。
3,結城秀康の崇める後世の福井藩
結城秀康が起こした越前藩(のちの福井藩)は結城秀康の後、息子の松平忠直が受け継ぎます。
福井藩は松平姓を名乗ることのできる御家門の筆頭であり徳川一族の中でもひと際、存在感ある大大名でした。しかし、将軍・秀忠と不仲の松平忠直が配流されるとその弟・松平忠昌が後を継ぎますが将軍家との仲はあまりよくありませんでした。また、支藩の分封と相続の混乱から所領を大幅に減らしていきます。次第に藩邸の格式も下がり、将軍家の江戸城での対応も外様の国持大名と同じになっていきました。
そんな中でも徳川家康の子供であり2代将軍秀忠の兄・結城秀康が開いた福井藩は稀なものでした。その特別な状況を最大限アピールしようと寛永5年(1628年)越前東照宮を福井城内に勧請し祀りました。この時期は松平忠直の弟・松平忠昌が福井藩を継いだ頃になります。この松平忠昌は越前北の庄を福井と名前を変えた人物でもあり、北の庄の北は敗北の北の為、縁起が悪いということで福井に変更。また、筆頭家老の本多富正も現在の鯖江市や越前市に結城秀康や徳川家康を祀る寺社仏閣を創建していきます。これらは一新した福井藩と将軍家への忠節、松平家との深い関係性をアピールしたものと考えられます。
将軍家への忠節を表し、その思いを継続し続けたが福井藩は経済的に長く厳しい時期が続くこととなり福井藩がその思いとチカラが発揮されていくのは幕末の第16代福井藩主・松平春嶽の時代にまでかかることになります。
厳しく長い福井藩の低迷の中、結城秀康が開いた藩として誇りを忘れず保ち続けたからこそ福井藩は幕末の混迷の中、影響力を発揮できたのではないか?その誇りを保ち続けたからこそ松平春嶽という名君を生むことになったのだと考えます。
Commentaires