福井市の名勝・養浩館は越前松平家の別邸としてその庭園は世界的にも認められた美しさある日本庭園です。この養浩館は3代藩主松平忠昌の時に福井藩主別邸となったといわれます。それ以前は永見氏という家臣の館でした。この永見氏、養浩館を紹介する一部のパンフレットやホームページには2代藩主・松平忠直に成敗されたとあり、まるで永見氏が悪いことをしたような紹介になっています。これは大きな間違いであり永見氏が成敗された理由と想いをここに伝え越前松平家最大の黒歴史と言えるこの永見騒動を少しでもたくさんの方に知っていただき、養浩館の観光の際に少しでも永見氏のことを想っていただければと思います。
松平家と謎の関係性?永見氏
結城秀康の死がすべてを変えた?
松平忠直の名を地に落とした永見騒動とは??
1,松平家と謎の関係性?永見氏
永見氏は三河国二宮・知立神社の神主を務めた一族。その永見氏が初めて松平家と関係してくるのが徳川家康の祖父である松平清康に仕えた永見貞近の存在です。この永見貞近という方は知立神社の29代当主・永見貞英の弟と言われています。
当時、尾張国の知多半島北部を支配していた水野忠政はその東で影響力を持つ永見氏、松平氏に自分の娘を嫁がせ友好関係を築きました。
この水野忠政の娘は於大の方と言われ松平広忠と結婚し徳川家康を生みます。
一方、永見氏の当主・永見貞英も水野忠政の娘と結婚し後の於万の方が生まれます。
年頃になった徳川家康は正室・築山殿のもとで働く於万の方と恋仲になり双子が生まれ、それが越前松平家の祖・結城秀康となります。もうひとりは永見貞愛として知立神社32代当主として永見氏を継ぐことになります。系図を見てみると於万の方と徳川家康は祖父が同じで従兄弟の関係なることがわかります。
この関係を見ることで永見氏と松平氏はとても深い血の繋がりのあることがわかります。また、松平忠直の息子・長頼、長良も永見氏の姓を名乗ります。これは松平光長は正室の子供ですが、長頼、長良は側室の子供だったためと考えます。永見氏に入った2人は松平光長に仕えることとなります。
2,結城秀康の死がすべてを変えた?
慶長12年(1607年)結城秀康が亡くなると越前では追い腹が流行り優秀な家臣たちはあの世へ行った結城秀康の後を追いかけ次々と腹を切りました。これは将軍・秀忠から追い腹禁止令が出されるほど過熱したといわれます。そんな結城秀康のもとへ向かっていった家臣の中に永見長次という名があります。古くから結城秀康に仕えた永見長次は徳川家康の祖父・松平清康に仕えたといわれる永見貞近の流れともいわれ、結城秀康の母の於万の方の実家筋となります。松平家を古くから支え続けた家柄で、事実、永見長次は一万五千石を有していた重臣。その後の永見氏は永見右エ門が跡を継ぎます。
この結城秀康を追い死んでいった家臣たち。この風習はこの後、永見騒動だけでなく越前騒動も起こていて結城秀康の後、大きく福井藩の力を激減させる原因になったと考えます。
写真は結城秀康三将図。真ん中の結城秀康の下に描かれているのは左・永見右金吾(長次)と右・土屋左典。
3,松平忠直の名を地に落とした永見事件とは??
元和2年に徳川家康がなくなり、その後、松平忠直が28歳の元和8年。
松平忠直の心を動かす女性が現れます。それは父・結城秀康が亡くなった時に追い腹しあの世でも家臣として仕えているであろう永見長次の妻、当時は未亡人で40歳ぐらいの女性と考えられます。その子の永見右エ門は、まだ成人したばかりで妻をめとり女の子が生まれたばかりの頃でした。
そんな未亡人を妾(めかけ)にしようと忠直から指示が来ました。
未亡人は驚き、夫は結城秀康に命を捧げたのに理不尽にもほどがあり、なんて恥ずかしいことだと、髪を切って尼になってしまいます
しかし、松平忠直はそのことに怒り、未亡人の子、永見右エ門に責めを負わせようとしました。しかし、右エ門も忠直の行為に怒り登城しなくなります。その事でさらに怒りが増す忠直は山川讃岐に命じて永見家の屋敷を囲んだが、右エ門はあの父の子として笑われる様なことはできない!この命を持ってこの屋敷で死のう!と屋敷に火を放ち母と共に自決した。
時期は大みそかということもあり、永見右エ門の若妻はたまたま実家に帰っていたが右エ門が亡くなったことを聞いて、周りの忠告も聞かず急ぎ薪を積んで火をかけその中に身を投げた。侍の妻として逃げることを拒んだといわれます。
忠直はこの永見家の屋敷が燃え上がるのを鷹門に上ってみて確認していたとされます。
さてこの燃え上がる永見家の屋敷は現在、越前松平家の別邸・養浩館のある地となっています。この焼け野原を松平忠昌が整備しました。ここに私が思う永見氏の想いとして決して永見氏は問題を起こし成敗されたわけでなく結城秀康の後を追った永見長次の想いと誇りを保つために自決したのです。忠臣・永見氏は松平忠直の乱行の末、滅ぼされたが現在の福井県でそのことを知る人はとても少ない。
先日、養浩館へ行った際にガイドさんに『永見氏屋敷の面影などは残っていますか?』と聞きましたが、『松平家別邸となる以前の話は分かりません』と言われました。
ここに福井ゆかりの詩人・故 則武三雄さんの『私本 松平忠直』という本があります。松平忠直の情報は地元・福井県でも少なくこの則武三雄さんの本はとても詳しくそして読みやすく何度も読み返しました。今回、この記事を作成するにあたりこの本をメインにし各地域の郷土史なども参考にし作成しまとめました。とても興味深い内容でこの本で則武三雄さんを初めて知ったのですが福井の歴史を凄く勉強され詳しい方だなと感動しました。時間を作りもっと則武三雄さんの作品に触れていきたいと思いました。
最後に、結城秀康亡き後の越前は混迷の時代を突き進みます。越前騒動に始まりこの永見騒動、松平光通の自殺を経て福井藩は減封・改易へと向かいます。そのすべてに追い腹というとても忌まわしい風習が絡んでいるように感じます。優秀な家臣が藩主の死を追い消えていく。なんとも不器用な福井藩ですがその想いや誇りはしっかりと後世に残していきたいなと思います。
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