北陸新幹線開通後から行われている金沢七福参歩道という金沢駅周辺に鎮座する7つの神社を巡ってスタンプを集めるいわゆるスタンプラリーに参加しました。5月26日に参加し、まもなく8月なのですがその間いろいろ金沢駅周辺の神社を巡っているうちに興味が増してきました。この辺りは金沢城と金沢港の間に位置し現在では北陸の玄関口・金沢駅として栄えています。7つの神社を探索しこの辺りの歴史を深掘りしていきましょう!
石川県金沢市中央通町 犀川神社(さいかわじんじゃ)
御祭神はアメノコヤネ、ヒメオオガミ、タケミカヅチ、フツヌシ。
天正2年(1574年)前田利家公封国の時、奈良の春日大社から勧請。金沢市中村町の春日神社(現•中村神社)の別社。宝久寺の春日と呼ばれ宝久寺が別当寺。宝久寺の元祖•空峰は利家と幼友達で前田利家が越前府中に在住の時は越前へ、金沢に居城するや金沢へ移住するほどの親友でした。 この話は名前などの違いがありますがよく似た話はいくつかあります。
越前府中(武生地区)の宝円寺では前田利家は越前府中在住時に7世大透圭徐に深く帰依し両親の菩提を弔ったと伝わります。その後、能登国を治めるようになった前田利家は能登国に宝円寺を建立。加賀国を加増されると金沢に宝円寺を建立したと言われます。
宝円寺と犀川神社で伝わっている話の違う点としてお寺のお坊さんの名前です。宝円寺に伝わる名前は大透圭徐で神社に伝わる名前は空峰となっていて犀川神社の社伝では幼友達で越前府中に尾張から連れてきたことになっています。宝円寺に伝わる話では越前府中で深く帰依し能登にも寺を建立し連れてきたことになっています。この大透圭徐と空峰が同一人物かは今後、神社巡りの課題としてとっておきます。
お寺の名前も違います。犀川神社では宝久寺、お寺では宝円寺。通字は宝で曹洞宗なので同じか関係性は強いと推測できます。現在の金沢市の宝円寺にも『もともと兼六園の東側にあった』とあり、東側には金沢城がありその東と考えると現在の犀川神社に近くなります。この辺りは犀川を挟んで大きな中村地区があったとされるので宝円寺もこの中村地区にあったことが分かります。
名称などが少し違いますが同じ話だと推測できます。
この神社の見どころとして境内社の稲荷神社にあるクロマツのうねりが凄い。まさに昇竜のような天に昇るかのようなうねりは真下から見ると圧巻です。
拝殿には奉納された絵がありました。古いもので状態はあまりよくはありませんが戦いの様子を描いたものが多く興味はあります。手水舎はきれいに整備されていて鮮やかな花手水になっていました。神社境内の横には犀川が流れていてまさに犀川の守護神として鎮座しているように感じました。
石川県金沢市中村町 中村神社
犀川神社の対岸に位置した中村神社。御祭神はタケミカヅチ、アメノコヤネ、フツヌシ、ヒメオオガミ。この中村町の中村神社、中央通町の犀川神社、増泉の春日神社は犀川と伏見川に挟まれた地域で春日系の神々を祀っています。この辺りの歴史を深堀していると鎌倉時代は米丸保と呼ばれて平安末期に鳥羽院から藤原顕頼(ふじわらのあきより)を通して白山宮に寄進されていることからこのころ藤原氏の影響が強かったのではないかなと推測。その為、藤原氏と関係が深く藤原氏の氏神でもある春日神社を祀ったと考えられます。
この神社の見どころは何といっても龍神の彫刻です!拝殿は金沢城二の丸にあった舞楽殿を移築した歴史的な建造物。色彩豊かな格天井や欄間の龍神など200年以上時を経ても加賀前田家の威厳を感じられます。
宝暦9年(1759年)の大火の時、金沢城をはじめ市街地の大半が焼失したが、石川門、唐門そしてこの舞楽殿は焼失をまぬがれました。欄間の龍が水を呼んだと伝わります。さらに明治の大火災なども乗り越えた為、龍神と呼ばれ現在もその姿を残します。 今にも動き出しそうな龍の彫刻、少し派手な天井と見応えある拝殿です。神紋は藤原北家の家紋•下がり藤と更に深い歴史も感じられます。
石川県金沢市増泉 春日神社
金沢七福参歩道の神社の中で春日系の神社はもうひとつあります。増泉地区にある春日神社で犀川と伏見川の間に鎮座し中村神社から少し南へ徒歩5分の位置にあります。鎌倉時代の米丸保と推測される場所にも一致し当時、この辺りでは藤原氏の影響が強かったことがわかる神社のひとつです。
御祭神はタケミカヅチ、アメノコヤネ、フツヌシ、ヒメオオガミ。社伝には『石川郡五箇荘の総鎮守として天暦元年(957年)大和国三笠山の春日大明神から勧請。荘内でとれた米などを保管する神庫とされた。』とあります。この社伝には少し問題があると思います。ここに出てくる五箇荘は江戸時代の時の呼び名で正しく直すなら『天歴元年(957年)大和三笠山の春日大明神から勧請。犀川に伏見川が合流する水運の拠点として米などを保管する神庫とされた。江戸期に入ると石川郡五箇荘の総鎮守として地域住民に崇められた。』となります。藤原氏の荘園では春日神社に米などの貢物を集めることが多いのでもしかするとこの3つの春日系の神社の中で、この増泉の春日神社が藤原氏の拠点となっていた可能性が高いと考えられます。
神紋は梅鉢紋。江戸期には五箇荘の総鎮守とされたとあり加賀前田家との深い結びつきを感じます。このころに神紋を前田家の梅鉢紋も変えたのではと推測。鳥居の両脇の垣根が成長しすぎて鳥居が隠れちゃう~なんかかわいく見えてしまうのは私だけでしょうか。
この神社の見どころは境内社の出世稲荷神社にある朱色の鳥居が並ぶ参道。願いが通ると鳥居を建てる。そんな鳥居が多く並ぶのは願いが叶う証とされる。
『 文政四年(1821)一月、仲野長蔵茂なるものが金沢の町医者今井秀徳に依頼し、山城国宇治郡山科郷花山稲荷社(現京都市山科区西山欠野上町65 花山稲荷神社)鎮座の稲成明神の御分霊を賜り、御神体は庭鷺社に奉斎した。
天保八年(1837)二月、仲野長蔵茂は飢餓の苦難を見るに忍びず、春日神社の十一代神職田中三河守正久を通じ、みづから奉斎の稲荷神の尊号授興を懇願してきた。
このため金沢神社觸頭を通じ、かつ長蔵茂の娘「せい」の経済的援助を得、京都在住の神道家の総師である吉田家に尊号授与を請願し神格正一位を授与されるに至った。
以降春日神社境内の一角に小祠を設けて祭祀することとなる。
これを以て正式に春日神社での奉斎の起源となるため、この出世稲荷神社は天保八年二月より春日神社に奉斎されたとなる。』 春日神社の社伝より
ここに出てくる仲野長蔵茂という人物と娘のせい。商人なのかな?経済的な支援を春日神社や地域に行っていたことがわかります。この仲野長蔵茂という人物は今後の深堀りポイントなので詳細等調べていきたいです。
石川県の歴史や社伝を調べていると白山勢力と藤原氏の勢力の仲が余り良くない事がわかります。白山市や小松市、能美市には春日神社はほとんどない中、ここ犀川と伏見川を挟む地域に春日系の神社がまとまっているのは興味深いです。
石川県金沢市三社町 豊田白山神社
そんな春日系の神社が多い中、金沢市三社町には白山系のキクリヒメ、春日系のタケミカヅチ、八幡系の応神天皇を祀る豊田白山神社があります。地名の由来は三社権現を祀ったことによるといわれ、もちろんこの三社は白山神、春日神、八幡神のこと。複数の神々を分け隔てなく祀る日本人らしい考え方です。
神仏習合時代は天台宗三社山常光寺と呼ばれ十一面観音、薬師如来、阿弥陀如来を本尊とした。 楼門のような入口があり神仏習合色強めの境内。
元禄期(1688-1704年)に金沢城下が広がって三社町が出来たと言われ、この頃の金沢は急速に発展し人口が増えていったことが分かります。もともとは金沢市戸板地区に鎮座していたこの豊田白山神社も明暦元年(1655年)に現在地に鎮座したとあり、それまで住民などほとんどいなかった地域の要としてこの豊田白山神社を遷座したと推測されます。金沢城下の西北部に位置し武士だけでなく商人、農民まで入り交じる町で大きく栄えたといわれあまりにも人が多すぎて人の家まで入ってくるので殺人事件まで発生するという話も伝わっています。
現在は金沢駅から徒歩15分ほどの住宅地に鎮座している神社で拝殿に関しては300年以上前の建物と言われています。
入口にはもとは天台宗三社山常光寺と言われるだけありお寺の雰囲気がたっぷり残った立派な楼門が特徴的。拝殿もどことなくお寺を感じさせる屋根造りです。境内にご住職さんの住居がありお寺の雰囲気の強い境内だなと感じました!
注)公式ホームページは確認できません。確認でき次第追加します。
金沢七福参歩道に出てくる7つの神社の内の4社をここで紹介しました。犀川と伏見川に挟まれた地域の古い歴史と犀川の北側の三社町付近の江戸時代に入ってからの急速な発展など金沢駅周辺の昔の雰囲気が分かってきました。江戸期以前は金沢駅のある場所も平地で田畑が広がっていたのではと考えると金沢の江戸期に入ってからの急速な発展が分かってきました。
次は残りの3社をご紹介していきます!
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