不死鳥の如く蘇る越前国
大野市の歴史
福井県の山間部に位置する大野市はその場所から山岳信仰が盛んな地域でした。さらに中世に入ると朝倉氏の影響が強く織田信長が越前に侵攻した際は朝倉義景もこの大野市で自害しました。江戸時代は火災や飢饉に苦しんだ土地柄、現在でも神仏への信仰が強い地域です。
現在の大野を築いた
金森長近
古くから織田信長に仕えた金森長近。長篠の戦いや越前一向一揆平定に活躍しました。
天正3年(1575年)越前平定後は柴田勝家のもとで越前国大野郡を与えられました。その後、長近は大野郡を整備し城下町を造り上げました。天正14年(1,586年)に豊臣秀吉の命で飛騨国へ転封するまでの約10年余り。金森長近が行った大野郡の整備は現在の大野市の街の基礎となっています。
碁盤の目状の町割りが行われ東には寺院を集めて寺町を整備しました。整備された城下町は越前の小京都と呼ばれ現在もその面影を残します。
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財政難に苦しむ
大野藩
2代福井藩主の松平忠直が隠居・配流されたのち、その弟・松平忠昌が福井藩を継ぐと福井藩は細かく分割されました。その時、大野藩が誕生します。忠昌の弟・松平直政が初代大野藩主となり、のちに元老中の土井利房が大野藩の入ると幕末まで土井家が大野藩を治めた。
大野藩は財政的に厳しい藩だったため銅山開発など積極的に行うがなかなか結果が出ない中、飢饉や一揆などで厳しい財政は続きました。幕末になると名君と呼ばれる藩主・土井利忠が藩政改革を行い財政を立て直します。
藩政改革の中で注目する点は蝦夷地開拓です。海のない大野藩が船を建設し蝦夷地に夢をかけたことはとても興味深いです。
越前朝倉家大野郡
織田信長の越前侵攻の際、朝倉義景は白山平泉寺を頼り大野郡司・朝倉景鏡と共に越前大野の洞雲寺に逃れます。しかし、白山平泉寺は織田方に寝返った為、朝倉義景は賢松寺へ。しかし、そこで朝倉景鏡の裏切りに合い朝倉義景は自害します。現在、大野市には朝倉義景公墓所があります。
戦国期、越前朝倉家は一乗谷に拠点を置く本家朝倉家。敦賀を治める敦賀郡司、大野を治める大野郡司の3つの朝倉家勢力がありました。ここ大野郡はもともと斯波氏や二宮氏などの勢力が根強く朝倉家は大野郡を治める大野郡司を置くことで大野の安定的な支配を計りました。